本題に入る前に訂正をしておきたい。前回の冒頭で「賛でも否でもない」と述べたが、「賛でも否でもない、あるいは賛否を両方含む」と直したい。
前回に続いて、批判という語の原義・由来について述べる。
私は前回、「原義的」という言葉を使った。私が「批判」の原義について述べたかったからであるが、というのも、明治時代以降日本に入ってきた近代的・西洋的・概念的な語というのは、当然に西欧語が多いのであって、日本語にもともとない言葉を「つくって」、あるいは既存の漢語?を「当てはめて」いることがある。
(当てはめた例として「社会」、また「同定」はidentifyの訳語としてつくられたと思ったがエビデンスを見つけられなかったので参考程度に)
つまり、日本語の「批判」を見てもその語が持つ本来的な意味を捉えることが難しいかもしれないということだ。
前回引用した辞書の記述には実は③があった。哲学における用法のようである。
「③〘哲〙 〔ドイツ Kritik〕 人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。」※1
さて、「哲学」で「批判」、何か特定のものを思い浮かべている方もいるかもしれない。そう、カントのいわゆる「三批判書」である。
『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』
知らない方のために説明すると、「カントは認識論において『経験論と合理論を批判的に総合した』と言われる」人である。
何を言っているか分からないだろうが、私も何を言っているのか分からない。(これの元ネタはジョジョらしい。「批判」と違って元ネタを探すのはそこまで重要じゃないかもしれんが……)
分からないというのも、これは駿台講師の栗栖大司師(駿台講師の敬称は師らしい)の受け売りだからだ。栗栖師によれば、批判とは「本来、『制限すること・限界づけること』を意味する語。」である。「評価するという意味もある」とすら述べている。
カントは「批判」という語を、決してネガティブな意味ではなく、ある対象についてまさに「賛否」なく、あるいは賛否を含めて「限界づけて」論じてきたのだろう。
この「限界づける」という「批判」の用法は、辞書で見られた第1義「物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。」につながってこないだろうか。
「限界づける」とは、「できることとできないことや、正しいことと間違っていることとを見分ける・区別する」と言い換えることができよう。物事の可否・成否や正否の境界を区切っているのだ。これはまさに「物事の可否に検討を加え、評価・判定すること」と言える。
「批判」の原義についてはまだまだ続きがあるし、私の一番言いたいことにはまだ言及できていないが、長すぎると、ということでここで中断する。次回は「批判」という語の源流をさらにさかのぼってみたい。
ところで本題とは外れるが、冒頭で訂正をいれた。考えながら書いてほぼそのまま公開しているからこんなことになるのであるが、また、自分の過去の記述を顧みることによって起こることでもある。これこそ、絶え間ない自己批判によってなされることであるのは言うまでもない。
※1 大辞林「批判」(第3版)https://kotobank.jp/word/%E6%89%B9%E5%88%A4-612181(2020/05/15)
※文中の栗栖師の引用部分は「夏のセンター倫理」による
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