「息を切らして」が正しいのではないかという意見(2021/10/29)
「息を切らせて」という表現を目にして違和感を覚えた。「切らして」の方がしっくり来るな、と。
分析してみた。
「切らす」+「て」説:「切らす」を一語と見るなら五段動詞で「切らして」となる。
「切る」+「せる」+「て」説:一方、切る+使役の助動詞「せる」と見るなら下二段活用で「切らせて」になる。
並べてみると分からなくなった。
「切らす」and「成り立ち」などとネット検索してみたが、やり方がよくないのかあまり豊富な結果ではなかった。
私は結果の中の『大野晋の日本語相談』にアクセスしてみた。すると、大野晋氏の著書の中身が読めた。(著名な国語学者のようだが、日本語の起源についての主張には言語学的観点からの批判・反対意見も多いようだ。)
タイトルの通り、日本語に関する一般の質問に著者が答える形式になっている。この中に、「お醤油を切らす」なんて言い方を不思議がっているという質問があった。一部引用する。
質問のお方は、こう考えたんですね。「お醤油を切らす」とは「切る」の使役形だ。「切る」とは意志的な動作だ。それを「なくなってしまう」という自然的変化を表すために使うのは変だ。
その後、意志的な動詞の対立形を示し、切る─切らすという対立と、切れる─切らすという対立が併存していると説明する。
「シャンプーをきらした」のは「シャンプーがきれた」の対立形です。自然的にキレタことを、あたかも、自分の意志で誰かにキラレタかのようにいうわけです。
以上のように説き、すなわち、「息を切らす」というのは「息が切れる」を言い換えた表現であり、「切らす」とは「切れる」と同様に一つの動詞であるという。
一応の結論として、「切らす」+「て」説が正しく、私の違和感は間違っていなかったことになる。
分かったような分からないような感じがする。結局は、「切らす」という独立の動詞が存在することを知っているかどうか、という問題なのだろうか。
しかし、「切らす」という独立の動詞に使役的な意味が含まれていることは確かであるから、改めて考えてみると本当に分かりにくいと思わざるを得ない。 「切らす」という動詞が存在するといっても、それは日本語話者がそう使ってきたから客観的に見ると存在するように見えるにすぎない。(言葉は全てそうだが。)
言語が、数学や物理の法則のように、ある普遍的な決まりの下で運用されているわけではない以上、結局は、使う者が違和感を覚えるか否かという点にしか「正しさ」を見出すことは出来ないのかもしれない。
そうであるならば、言葉を使うときは、受け取る側がどう受け取るか、どういう意味で解釈するかということを考えることで、本当の意味での「正しさ」を担保できるのではないだろうか、という自戒で終わりにする。
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