目的を達成するために、ある特定の手段を用いることがあります。そしていつの間にかその手段自体が目的になってしまっている。目的達成のためだったはずの手段、その手段を達成すること自体に力が注がれて、本来の目的は忘れられ、結局目的達成が難しくなってしまう。このような経験をしたことはありますか?もしくは、身近にそのような例を目にしたことはありませんか?
今回はいくつかの例から自己目的化がどのようなものか、なぜ自己目的化がいけないのかをまとめて述べてみたいと思います。
目次
ダイエット
女性は……などと偏見でものを言いたくはありませんが、ことあるごとに「痩せなきゃ」「ダイエットしたい」と言っているのは、女性が多いと思います。(見た目に気を使っているという意味で悪いことだとは思いません。逆に外見に極端に無頓着な人は男性に多いと思いますし、その末路はおわかりでしょう。)
一つ問います。なんのためにダイエットしたいのですか?目的はなんですか?「痩せること」自体が目的になっていませんか?もしそうだとすれば、それこそが自己目的化です。
ではなぜそれが目的達成にとって悪いことなのか。実は経験からもう分かっているのではないですか?それは目標がブレ、そのアプローチもブレることです。
「痩せること」は例えば「健康になりたい」「美しくなりたい」「モテたい」などといった目的達成のための手段であるべきだと思います。なぜならば、その最終目的によってそのアプローチ、つまり取り組み方が変わってくるからです。
「健康になりたい」ならば、栄養バランスが整った食事を採った上で運動をするといったアプローチになるでしょう。「美しくなりたい」ならば、西洋の彫刻に見られるような肉体美を目指して筋トレをするのが最適かもしれません。あるいはただ「体重を減らしたい」というのが目的なら、断食をすれば一番手っ取り早いでしょう。
このように、「痩せること」の先にある本来の目的を明確にしておくことで、最適なアプローチを選択することができます。これができていないと、やれバナナダイエットだの、なんちゃらダイエットだのと訳のわからない「分かりやすい」「キャッチーなだけ」の情報に踊らされてしまうのです。
なんのために痩せたいのか。ダイエットした先になにがあるのか、どうなりたいのか。これを明確にすることが重要だと思います。これはモチベーションの面でもいい影響があると思いますが、ここではそこまで踏み込みません。
新型コロナウイルスに対するPCR検査の拡充
はじめに断りますが、私は専門家でもなんでもありません。ですが、問題解決に向けての取り組み方について一般的な考え方を示すことはできるはずです。
報道などでよく耳にするPCR検査拡充論。この目的はなんでしょうか。
最近はSNSでも個人が意見を表明することができるようになりました。そこで、PCR検査を拡充せよとの声が高まりました。またそれに対する反論として「むやみなPCR検査の拡充はかえって混乱を招くからやらないほうがよい」という意見も目にします。
私は専門家ではありませんから、その是非は判断できません。しかし、「なんのためにPCR検査を拡充するのか」という視点からの意見はあまり見られませんでした。専門家にはもしかしたら自明のことだと思われて、あえては言うものではないのかもしれません。しかし、SNSで「意見表明」する素人一般市民はそれが分かっているのでしょうか。そこまで考えているのでしょうか。
私見を述べれば、PCR検査を拡充して感染者を徹底的に洗い出し、無症状感染者が市中でウイルスを拡散させないようにするという方法が悪いものだとは思いません。また、感染者を医師の監視下に置くことで、重症化したときの対応を早めることができます。
検査の拡充が混乱を招くという論理もよくわかりません。医療崩壊を招くと言いますが、それはPCR検査自体の問題ではなく、その後の重症度による病床の割り振りや情報公開の方法によって問題が起きている、起きることを危惧しているのだと思います。つまりPCR検査を増やすこと自体には問題がないということでしょう。(この議論はもう古いかもしれません。)
学校の宿題
学校の宿題をやる目的は無論、勉強です。学習したことの復習に使われることが多いと思います。副次的な効果として、児童生徒の成績評価のうち「関心意欲態度」というような観点からの評価をみるときに使われることがあります。
私は児童生徒時代、つねづね、宿題が自己目的化していると感じていました。もちろん児童時代にはそんな言葉では捉えていませんでしたが、漠然と宿題をやる意味に疑問を持っていました。高校時代に自己目的化という言葉を知り、また、その言葉によって抽象的だった概念をイメージをもって捉え、外部に表現することができるようになりました。
高校時代の話ですが、こんなことがありました。高校ではそこそこの量の課題が出されていました。同級生の中には答えを写して提出している人もいましたが、私は自分の力にならないことはしないというか、やるからには自分の力にするというのがポリシーだったので、答えを写すのは時間のムダだと思っていました。だからやりたくないときは最初から提出しませんでした。(←うんち)当然先生方から評価されるのは答えを写して提出する生徒の方です。私はそれを甘んじて受け入れ、文句を言ったことはありませんが、そのような宿題の使い方に疑問を持っていました。
本来、宿題は学力をつけるためにあるはずです。なのに内容は問わず、宿題を提出すること自体に評価がなされる。私はおかしいと思っていました。別にやりさえすればいつ提出したっていいし、なんなら提出する必要もない。「答えを写していようが出してればいい、それで力がつかなくても自己責任」ということなのでしょうが、だったら提出しようがしまいが自己責任とすればよく、提出を義務化する意味がわからない。結局これは、学力をつけることが本来の目的だったのに、いつの間にか宿題を提出することが自己目的化していると言えるのではないでしょうか。
補足として、先生方が多忙であることが理由の一つであることは分かります。あるとき、いつものように課題を出さずにいると、英語の先生に呼び出されました。多くの場合、放課後残されて宿題をやらされるのですが、その先生は違いました。英作文の問題を出されて、それをやったら課題を出したことにしてやろうというものでした。先生は添削までしてくれ、私はありがたく思い、みんなこうならいいのにと思いました。しかし、そうはなりませんでした。
多くの先生方にそんな暇はないのです。先生方は多忙の中、生徒の学習を管理する方法として宿題を出しているのでしょう。宿題をチェックするのにも時間がかかります。宿題なんて出さなくていいのに、生徒が学力をつけられるように手間をかけて宿題を出している。それを分かっているので、私は先生を非難しません。ただ、宿題を義務化しなくていいのにと思うだけです。生徒も先生も苦しんで、いいことはない。先生が選んでくれた問題集を自分で考えて必要だと思ったらやればいいだけです。
先生方を責めるつもりはありませんが、宿題を提出することが自己目的化した結果、期日に追われた生徒は答えを写さざるを得なくなってしまい、学力をつけるという本来の目的が達成できなくなっているのです。
まあ、できない量ではないはずなので、期日までにこなせない私が無能なだけだというのは別のお話です。
さいごに
「宿痾」は簡単にいえば病気のことです。病気といえばいいのに宿痾を使ったのはかっこいいからです。「宿痾」を使うためにこれを書いたとしたらそれは自己目的化でしょうが、別にそういうわけではありません。宿痾を使えば「宿命」の語を連想して、逃れられない、我々の中に蔓延る(はびこる)イメージを持たせることもできます。
この文章では目標と目的を特に区別して書いていません。あえて意識的に区別することによって、この文章と同じようなテーマの文章を書くこともできるでしょう。(例えばダイエットの目的と目標)また、目的と単なる(副次的な)効果の違いという文脈にも近い内容でしょうか。
自己目的化を避ける方法として、個人的には、目標を明確に設定することが重要だと思います。例えば、M&Aは企業の成長目標達成のための手段であり、それ自体が目的になるとM&Aは失敗しますが、目標を明確に設定することで、M&Aを成功させることができるそうです。(M&Aの大半は失敗しているらしい)
私たちは無意識のうちに自己目的化に陥りがちです。自らへの戒めとしての意味をこめて書きました。宿痾ではあっても、逃れられない宿命ではありません。全部読んでいる人はいないだろうと思いますが、ちょっとでもプラスになれば幸いです。
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