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2020/10/07

日本学術会議事件について

日本学術会議会員任命拒否について意見を表明したいと思います。一番言いたいのは最後の2項目です。(2020/10/07)

法律問題にこだわる理由の項目に加筆修正しました。(2020/10/09)

目次

・優れた意見の紹介

・「法律問題」以外で勝手に盛り上がっている現状

・法律問題にこだわる理由

・解釈の問題

・解釈変更は許されるのか

・どうすればよいのか

・議論を大切に

優れた意見の紹介

私の意見を示す前に、秀逸な意見を紹介します。このページ全部読まなくてもこれだけでも読んでみて下さい。

日本学術会議会員の任命拒否について私の考えるところ

これは慶應義塾大学の経済学部で日本近代史の研究をされている先生の意見のようです。今回の事件について非常に冷静に、理性的・論理的でかつ簡潔にまとめているものだと思います。誠に勝手ながら以下に要約すると、

・この問題は法律の問題として問われるべき

・今回の措置は恣意的なものと言わざるを得ない

・この種の恣意的措置が次に誰に向けられるか分からず、危惧を感じる

「以上が、今回の措置に抗議する理由のすべてです。」(引用)

このように、この問題をあくまで法律の問題ととらえ、今回の措置に反対意見を表明されています。

法学生の端くれの私としても同意見です。まずは法律に違反しているかしていないのかが問われるべきだと思います。

(問題が明るみに出た直後にこんなTweetをしたりしています。一応。)

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「法律問題」以外で勝手に盛り上がっている現状

しかし、現状はそうなっているでしょうか。上に紹介した意見の中でも危惧が示されています。

・「『学術会議にも問題がある』とか、『自然科学と人文・社会では事情が違う』といった議論」は「行政権の恣意的な行使という問題に比してレベルの異なる問題であ」り、いま大事なことではない(「」内は引用)

・(学術に関わる人に対して)学者サイドの「内輪もめ」に気をつけるべきだ

・これに抗議しない者はみな共犯者だ、という発話をすべきでない

・今回選ばれた学術会議会員について、分野特性等について云々言うべきではない

このように、法律の問題または今回の措置が恣意的ではないかということ以外のことが取り上げられていることに危惧が示されています。特に、1つ目の危惧は残念ながら大正解です。実際に、「大学教授の職はあるから学問の自由は侵害されていない」だとか「金もらってるなら言うこと聞け」とか法律問題から離れたところでの的外れの意見が少なからず、いや、多くあります。卒倒しそうになるので紹介はしませんが。

今回の措置が「法律に違反していないか」、「恣意的な措置ではなかったか」。今問われるべきはこれだけです。

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法律問題にこだわる理由

ではなぜ法律の問題だけを問うべきなのでしょうか。「学術会議にも問題がある」という意見がなぜ的外れといえるのでしょうか。

例え話をします。あるところに今までに人を何十人と殺してきた大悪党がいました。正義感の強い若者がある日それを知って憤ります。そしてその大悪党を殺してしまいました。若者は逮捕され、殺人罪で起訴されました。裁判で若者は「確かに人を殺したが、あの大悪党にも問題がある」と述べました。

さて、この若者は無罪放免になるでしょうか。ならないでしょう。「法律の問題」として、人を殺そうとして殺したら殺人罪が成立する。相手がどんな悪党でも関係ない。それが法の支配(狭義の法治国家)です。法によって統治されている国家において、違法性の判断より重要な問題はありません。違法性の判断という最重要の論点を検討するときに、法律問題にこだわらず「大悪党」の事情をはさんでしまうと適切な判断が損なわれます。問題を適切に切り分けて、若者の行為が「法律に違反しているかどうか」だけが問題にされるべきです。

今回の事件に話を戻します。「学術会議にも問題がある」という意見がいかに的外れかお分かりいただけたと思います。なぜならば、今回の措置の違法性を判断することが(狭義の)法治国家にとって最重要の論点であり、その判断を適切に行うためには、「学術会議にも問題がある」というような論点は「ノイズ」として捨象すべきであるからです。だから、今問われるべきは、今回の政府の措置が法律違反かどうかだけです。

(厳密にいえば今回の措置(手続き)と刑法犯罪は全く同じ話ではありませんが、大きな方向性としては間違っていないと思います。行政は行政のあり方を定める法律に常に従わなければなりません。これを法律の優位の原則といいます。ただ、一般論として、例え話は悪質な誘導を招く可能性もあるので、使い方、また、読み方は気をつけなければいけません。その例え話は本論に妥当するのか、を常に考えないと騙される(意見を誘導される)危険性があります。)

関連キーワード:法の支配、法治国家、法治主義、法律の優位の原則

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解釈の問題

では法律問題を検討しよう、と思ってみると、もう一つの問題に当たります。法律の解釈の問題です。先程の例え話では「人を殺したら殺人罪」という比較的単純なものでしたが、今回のものはそうはいきません。今回の措置が条文の解釈とどう関わってくるかについて、詳しい説明は専門家に譲りますが、簡単にいえば、立法時、すなわち国会での審議時点での解釈からいえば、今回の措置は違法です。

さらに問題を難しくしているのは、「解釈を政府が変更できるのか」が関わってくるからです。政権は立法時の解釈をどこかの時点で勝手に変更して、今回の措置を適法だと主張しています。確かに、仮に内閣によって解釈を変更することが可能だとするならば、今回の措置は問題にはなりません。

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解釈変更は許されるのか

時の政権によって法律の解釈が変更されることは許容されるのでしょうか。学術的な述べ方もあるでしょうが、それも専門家に譲ります。

また例え話です。ある人が人を刺殺しました。しかし、そのときの政権が刑法の解釈を変更して、「人を殺すというのは、殴り殺した場合に限る」としました。刑法の条文を見ると、殺人罪には「人を殺した者は、……」としか書かれていないので、これは解釈の範囲内と言えるかもしれません。この解釈変更により、その人は殺人罪に問われず無罪放免になりました。

これは本当に極端な例ですが、解釈変更の可能性としてはあり得なくはありません。しかし反論も当然あるでしょう。特に今回の事件では、日本学術会議が内閣府の所管する政府機関であることが、解釈変更ができる理由に使われていました。では、こんな例え話はどうでしょうか。

国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならないことが憲法で定められています。ある総理大臣が16人の国務大臣を選ぼうとしましたが、どうしても国会議員以外の大臣を8人選びたいようです。このままでは国務大臣の過半数9人を国会議員で占めることができません。そこで解釈変更です。一人の国会議員がとても太っていて、体重が200キロありました。これに注目した総理大臣は「こいつは人の2倍の体重があるから国会議員2人分だ。これで国会議員の大臣が9人、16人(17人)のうちの過半数を国会議員で占めている。」と主張しました。反論がありましたが、内閣の問題だから内閣が法を解釈すると言い張りました。

これもめちゃくちゃな例え話ですが、内閣が法解釈を勝手に変更するとはこういうことです。(これも憲法の解釈というさらに高次元の問題になってしまいました。)

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どうすればよいのか

では、内閣が法律の解釈を変更したいときはどうすればよいのでしょうか。それは簡単で、国会での議論です。国会で審議した上で法律を改正するなりすればよいのです。ただ、現在の多数政党は自民党ですから、多数決が行われれば結果としては同じことになるかもしれません。

しかし、大切なのは国会という開かれた(オープンな)場所で議論を行うことです。国民全員が見ることのできる国会で議論をすることが重要なのです。そうすれば、このような法改正は間違っているだとか、妥当だとか、主にマスメディアから情報が発信されて世論が形成されていくでしょう。その法律をどう解釈して、それによって実際にどう運用されていくかということも、ここで議論されるでしょう。その過程を経ずに、内閣の中での、閉じられて、隠されて、誰も中をうかがい知る事ができないところで話し合って勝手に法解釈を変更することは間違っています。(はっきり言います。)

そもそも今回の日本学術会議事件が起こったのはこれが要因と言っていいでしょう。内閣による法解釈の問題としては、検事長定年延長の問題も全く同じです。内閣の中だけでの勝手な決定は恣意的との指摘を避けられないと思います。

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議論を大切に

私は、民主主義の根本は議論にあると考えています。私は上で「多数決によって結果としては同じになるかもしれない」と述べました。多数決という「結果」が絶対なのは、その「過程」である議論があってこそだと思います。議論という過程が適正に行われるからこそ、多数決の結果を絶対視することができるのです。

議会制民主主義における議論の場は国会です。「多数政党は国民の多数に支持されているから、国会での議論をスキップして何をやってもいい」というのは間違いです。国会で国民に対して開かれた議論をする。これが政治にとって、政策云々より、何よりも大事なことだと思います。

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